当山は金瀧山真徳院無量寺と号します。
寺伝によれば『往生要集』の作者である恵心僧都源信(942年~1017年)が関東を巡錫したおり、この地に草庵を結んだのが始まりです。本尊は無量寿仏(阿弥陀如来)で、これも源信作と伝承されています。別に本堂内陣奥には平安時代後期に造られた仏像(区指定文化財)2体が祀られていることなどから、当寺の古くからの由緒を窺い知ることができます。
時を隔てて戦国時代の永禄年間(1558年~1570年)には、いわゆる国府台の合戦で里見軍の残兵が当寺に立てこもり交戦したため、兵火に遭い炎上いたしました。この戦乱に巻き込まれて、所蔵していた古文書・古記録等を焼失してしまったために、その間の変遷の過程は不詳です。ただ境内には、貞治年(1363)・正長元年(1428)・文明13年(1481)を始めとする室町期の銘を持つ板碑が残されています(区指定文化財)。また慶安2年(1649)には江戸幕府3代将軍徳川家光公より寺領として3石4斗の御朱印を直々に拝領し、関東でも有数の寺格を持つ寺院として君臨していた事から、江戸初期までには立派に復興を遂げていたものと思われます。 なお江戸期には葛飾郡上小松村正福寺の末寺となっておりますが、当無量寺は村内の神明社・富士浅間神社・香取社の別当寺院であり、また観音堂(十一面観音)・六斎地蔵堂・阿弥陀堂を管轄していました。そのほか享保9年(1724)銘を持つ大きな笠付庚申塔が現存し、また筆子師匠であった住職覚応和尚の墓がわざわざ本堂前に造立されていた(現在は歴代住職墓の地に移転)ことなどからして、江戸期を通して地域社会と密着しながら密教の法燈を守り続けてきた様子を窺い知ることができます。
近年では、昭和期に大普請を行い、同58年(1983)には弘法大師空海の1150年御遠忌事業として観音堂・本堂を落慶、同62年には山門が完成、さらに興教大師覚)の850年御遠忌事業として檀信徒会館(現さくら会館)を竣工、のち平成10年(1998)には客殿・庫裡を新築、同24年には客殿中庭の造園事業など、檀信徒の全面的協力のもとに堂塔伽藍の整備を行い、寺容を一新して現在に至っております。